致芳ふるさとめぐり - 成田(なりた)

旧佐々木家の繁栄により、米沢藩上杉家との交流や舟運によって京都との往来も盛んに行われ、文化が発展した地区でもあります。また、近年では、国の登録有形文化財の指定された「羽前成田駅」に訪れる観光客の姿も見受けられます。裏道や水路もあり、街歩きにおススメです。

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昭和30年 はぎ公園の様子

昭和30年 はぎ公園の様子


つつじ公園、あやめ公園とならんで長井市を代表する公園にはぎ公園があります。春の清楚なつつじ、夏のあでやかなあやめに対して初秋のはぎは素朴な花です。

はぎ公園については昭和62年に致芳郷土史会で発行した「沙石集」に鈴木秀弥が「萩公園と安部林蔵」という題で書いておられます。


安部林蔵(1884年~1958年)は成田の舘生まれ、家は農家でした。

稲作を主とした農業だけでなく多角的な農業をめざして「東北農園」と名乗って養鶏や缶詰、ビン詰などの製造を始めました。缶詰にしたのは主になめこ、ふなの甘露煮などでした。大正5年(1916年)頃は大きな工場を建てて缶詰やラムネ、サイダーを製造、「海軍御用」の看板をあげていました。

海軍に製品を買ってもらっている、という意味です。ラムネとサイダーは「花ラムネ」「さくらサイダー」の名前で置賜中に売れましたが安部林蔵は東京方面まで販路を広げたいものと考えていました。

それでその頃ではめずらしい大きなカラーのポスターを作ったり、顔の広い佐々木宇右衛門の紹介で東京の三越デパートに売り込んだりしました。三越からさっそく大きな注文が来ましたが、それだけの設備がなく原料も手に入らなかったというのでせっかくの注文を断ったということです。

そのうち第一次世界大戦後の不景気で工場は閉鎖しました。その後田を果樹園にしようとしましたがうまくいかず、萩を植えたら見事に成長、これが萩公園のはじまりです。

各地からいろいろな萩の苗を求め、山からつつじやもみじを移し植え、埼玉からヒバやあやめやすいれんなども求めました。

あずまやを作り、地元の人に親しまれる公園になり、曙園と名付けられました。安部林蔵が亡くなってから市観光協会の経営になり現在に至っています。

安部林蔵翁顕彰碑をつくろうという話がまとまり昭和48年碑が建てられました。


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