致芳ふるさとめぐり - 成田(なりた)

旧佐々木家の繁栄により、米沢藩上杉家との交流や舟運によって京都との往来も盛んに行われ、文化が発展した地区でもあります。また、近年では、国の登録有形文化財の指定された「羽前成田駅」に訪れる観光客の姿も見受けられます。裏道や水路もあり、街歩きにおススメです。

2021年撮影、観生院跡の写真

現在の写真


昭和30年 観生院跡の様子

昭和30年 観生院跡の様子


天平年中(729年~749年)僧 行基(ぎょうき:奈良時代の僧、諸国をまわって会社事業をして行基菩薩といわれた)が野川の清い流れを見て、流れの激しいあたりに寺を建て観生院と名付けたといわれています。

観生院の寺中に観音堂があって、応永11年(1404年)僧宥朝が大般若経600巻を納めました。

そのうち3巻に藤若丸の名が記されていますが、これは宥日の幼い時の名で、師の宥朝と一緒に宥日も経巻作りに当たったことがわかります。この時宥日は9才であったと思われます。この600巻の経巻は現在宮内の熊野大社に宝物として大切に保管されていますが、宮内にゆずった事情は次の通りです。


宮内村では毎年のように日照りで苦しんでいたので、成田村から大般若経と獅子頭を借りて雨乞いを行ったところ、そのたび雨が降りました。

宮内村では経本と獅子頭を譲ってほしいといってきました。

その頃、成田村はたいへん貧しくて、毎年のように野川や松川の洪水で田や畑も流されて困っていました。

それで三斎市という月3回開く市にかかる税金や年貢などもかわりに納めてもらうという条件で、600巻の大般若経、獅子頭、釣鐘を宮内村に譲り渡したのです。

宝永6年(1709年)観生院の観音堂は福蔵院境内に移されました。供養塔はその後建てられたもので、正面には梵字が書かれ、裏面には寛延3年(1750年)7月庚午吉日側面に奉供養一村中昌福山法印慶熊(福蔵院26世住職)と刻まれています。

その後地蔵様を建立し、又致芳郷土史会では記念碑を建てました。今は成田自治会が福蔵院から借り受け、集会場が建てられ地域住民の憩いの場になっています。


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