致芳ふるさとめぐり - 成田(なりた)

旧佐々木家の繁栄により、米沢藩上杉家との交流や舟運によって京都との往来も盛んに行われ、文化が発展した地区でもあります。また、近年では、国の登録有形文化財の指定された「羽前成田駅」に訪れる観光客の姿も見受けられます。裏道や水路もあり、街歩きにおススメです。

2021年撮影、旧佐々木家の写真

現在の写真


昭和30年 旧佐々木家の様子


佐々木家は近江の国(現在の滋賀県)の豪族でしたが、今から約800年ほど前新潟県の新発田に移り大変繁栄したといわれています。

天正15年(1587年)上杉景勝に攻められて負けてしまい、成田の福祉センターのあたりに逃げて来て白鷹町の栃窪に隠れました。時代が変わり世の中が平和になってきたので、栃窪に隠れ住んでから20数年が過ぎて成田に戻り、敵だった上杉家とも仲良くなりました。上杉の殿様が14回立ち寄られ、そのうち8回お泊りになられたと「御本陣記録」に残っています。

明治時代になって10代目宇右衛門は屋敷の東側に近代的な製糸工場を建てました。また森鉱山を経営、木戸孝允、大久保利通などとの交流が深く衆議院議員にもなりました。雅号を栗園また川柳では魚心、ともいい全国でも有名でした。明治29年(1896年)、九世正風亭川柳が訪れて、10代目になってくれと頼まれたが断ったとの話が残っています。安政2年(1855年)発行の「東講商人鑑」(あずまこうあきんどかがみ)という本に次のようにのっています。


「成田村佐々木右衛門の庭前に大木の栗あり。凡そ六百年余り也。廻り三丈余あるべし。今に枯れずして其勢盛んなり。」

この栗の木は佐々木家の象徴とでもいうようなもので、栗斉、栗園などと佐々木家の人たちは雅号(俳句を作ったりするときの名前)にも栗の字を使いました。栗の実を藩主が訪れた時のもてなしにも使っています。

佐々木家の母屋は残っていますが、普段は誰も住んでいませんし、栗の木にも昔のおもかげはなくなりました。


お電話でのお問い合せはこちら(受付時間 09:00〜17:00)

電話番号:0238-84-6337