旧佐々木家
佐々木家は近江の国(現在の滋賀県)の豪族でしたが、今から約800年ほど前新潟県の新発田に移り大変繁栄したといわれています。
天正15年(1587年)上杉景勝に攻められて負けてしまい、成田の福祉センターのあたりに逃げて来て白鷹町の栃窪に隠れました。時代が変わり世の中が平和になってきたので、栃窪に隠れ住んでから20数年が過ぎて成田に戻り、敵だった上杉家とも仲良くなりました。上杉の殿様が14回立ち寄られ、そのうち8回お泊りになられたと「御本陣記録」に残っています。
明治時代になって10代目宇右衛門は屋敷の東側に近代的な製糸工場を建てました。また森鉱山を経営、木戸孝允、大久保利通などとの交流が深く衆議院議員にもなりました。雅号を栗園また川柳では魚心、ともいい全国でも有名でした。明治29年(1896年)、九世正風亭川柳が訪れて、10代目になってくれと頼まれたが断ったとの話が残っています。安政2年(1855年)発行の「東講商人鑑」(あずまこうあきんどかがみ)という本に次のようにのっています。
「成田村佐々木右衛門の庭前に大木の栗あり。凡そ六百年余り也。廻り三丈余あるべし。今に枯れずして其勢盛んなり。」
この栗の木は佐々木家の象徴とでもいうようなもので、栗斉、栗園などと佐々木家の人たちは雅号(俳句を作ったりするときの名前)にも栗の字を使いました。栗の実を藩主が訪れた時のもてなしにも使っています。
佐々木家の母屋は残っていますが、普段は誰も住んでいませんし、栗の木にも昔のおもかげはなくなりました。