致芳ふるさとめぐり - 成田(なりた)

旧佐々木家の繁栄により、米沢藩上杉家との交流や舟運によって京都との往来も盛んに行われ、文化が発展した地区でもあります。また、近年では、国の登録有形文化財の指定された「羽前成田駅」に訪れる観光客の姿も見受けられます。裏道や水路もあり、街歩きにおススメです。

2021年撮影、塔様の写真

現在の写真


昭和30年 塔様の様子


塔様とは久保町地区にある石で造られた五重の塔(石造り多層塔)で、鎌倉時代に造られたものだといわれています。その側には庚申塔も建っています。

この塔様は寺に立てられたものか、または川端に建てられ野川や松川の洪水を防ぐため、お祈りをしたものかとも考えられますが、道しるべ、ともいわれています。また次のような伝説があります。


文治2年(1186年)の秋のこと、七人の山伏が民家に宿を願い泊めて貰ったのでした。この山伏一行は、源義経が兄頼朝に追われて、山伏姿に身をやつして、奥州平泉の藤原氏を頼って行く途中でした。もちろん、この時はこの事情は言わず、羽黒詣りの山伏として泊めて貰ったのです。

ところが、この一行の中の娘が急に病気になり、一緒に出発できなくなってしまいました。仕方なく娘をしばらく宿に泊めて貰うように頼んだところ、その家の人達は心良く引き受けてくれたので、山伏一行は世話になったお礼を厚く述べて出立したのでした。

それから3年が過ぎた文治5年の夏のこと、頼朝から義経を討つようにと再三にわたり命令された藤原泰衡は、ついに、衣川にある義経の館を襲撃、不意を突かれた義経は防ぎきれず、主従ことごとく討死したのでした。

やがてこの噂がこの地方まで伝わって、これを聞いたかの娘は家の主人に初めて、あの山伏一行は義経主従であって、その中で背の高いヒゲをはやした人が武蔵坊弁慶という者で、私は弁慶の娘であると打ち明けたのでした。

その証拠として、日の丸の軍扇を出し、これは、弁慶が義経の家来になった時に貰ったものであり、父がここを出発するとき形見にと渡して行ったものであると話をしたのでした。

これを聞いたその家の人々は大いに驚き、今まで以上に娘を大切にしたということです。後に娘は、この家の息子の嫁となって子孫大いに栄えたといわれます。その家は現在の鈴木平左衛門家の先祖であったということです。

この娘夫婦が、亡くなった父弁慶の霊を弔うために供養塔を建て、大法要を行ったといわれています。なお弁慶が娘に残して行った軍扇は代々その家の長女が引き継ぐこととし、回り回って今、吉川家に残っているといわれています。

庚申塔は寛政12年(1800年)庚申冬と書かれています。塔之越の講中が建てたものと思われます。


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