致芳ふるさとめぐり - 成田(なりた)

旧佐々木家の繁栄により、米沢藩上杉家との交流や舟運によって京都との往来も盛んに行われ、文化が発展した地区でもあります。また、近年では、国の登録有形文化財の指定された「羽前成田駅」に訪れる観光客の姿も見受けられます。裏道や水路もあり、街歩きにおススメです。

2021年撮影、善明院・文殊尊の写真

現在の写真


昭和30年 善明院の様子

昭和30年 善明院の様子


善明院は、昔、羽黒山の荒沢経堂院の住職であった安盛法印が高関に庵を建てたことによって始まりました。

成田は昔、東に発展していたと言われ、福蔵院は東向きでしたが、町が次第に西に移ったので西向きに建てることになり、福蔵院の土地と交換して現在の場所に移りました。明治5年の神仏分離によって善明院は、天台宗の寺院になりました。

善明院の境内に祀られているお文殊様については次のような伝説があります。


宝暦8年(1758年)飯澤清十郎家で池の泥を上げていると、泥の中から仏像のようなものが出てきました。

はっきり仏像ともわからないので子ども達のおもちゃにしていました。

ところが7才の弥市という子が原因不明の病気になり、占いをしてもらったところ、古い仏が「我、文殊なり、おろそかにすることなかれ」といっているとのことです。

驚いてその仏像をきれいに洗い仏壇に安置したところ子どもの病気はすぐ治ったということです。

飯澤家では仏壇におさめて50年も大事に守っていました。その頃善明院では村の子ども達に習字を教えていましたので、知恵文殊ともいわれる文殊様を建てようとしていました。
それで飯澤家の文殊像を本尊として(15㎝程の小さな仏像ですが獅子にのった立派なものです)文化4年(1807年)に建てられた石堂の中に移しました。その後お堂が小さかったので、文化14年木造のお堂を再建、明治5年3月15日再建、平成8年(1996年)今までよりも一回り大きく、威厳のある姿に再建されたのが現在のお堂です。

学問の神様とされ、子ども達の守り神ともいわれてきたことから昔からお祭りは若者がすることになっていました。戦後永く中断していたお祭りを復興させたいという願いが叶って、昭和33年から復興され、今は中学生を中心にして行っています。

8月9日~13日練習、14日夜祭り行列、から傘お供もあり、15日昼祭り行列、鉢払いという反省会と慰労の会があります。


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