五十川渡舟場跡
この舟場は文化13年3月(1816年)に始まったといわれています。
今、最上川の上にはコンクリートの橋がかかっていて、人も車も渡っていますが、昔は川を越えるというのは大変なことでした。東と西の五十川、成田と長井の宮、成田と森を結ぶ3つの舟場があって、渡し舟が重要な交通の手段でした。成田と宮をつなぐ野川には橋がかかり、成田、森の渡しは廃止されましたが、東西の五十川の渡し場はずっと役に立っていました。
東五十川と森の小中学生は低学年のうちは森の東分教場に通い、高学年と中学生は渡し舟で致芳小中学校に通いました。大雨で増水したり、強い風が吹くと船が止まってしまい歩いて通うのですが、長井橋を渡って約8キロもありとても大変でした。
昭和41年(1966年)森の東分校が廃止になり小中学生はスクールバスによる通学になりました。渡し舟のいちばんの大きな役目がなくなったというので廃止ということになり、なんとか続けてほしいという声もあったのですが、昭和43年(1968年)にとうとう廃止されました。
舟は危険なので何とか橋を架けたいとの考えは早くからあったようで、明治40年の長井村発展計画にも書かれています。昭和22年当時の村長村上市松は小国電興から太いワイヤーロープを買い、吊り橋を架ける計画をたて村議会にはかりましたが、中学校の建設が先だとの意見が強く否決されました。
また長井市合併の時も橋を架けることを条件にしましたが、いまだに橋は架からず、毎年8月致芳橋の架橋促進の願いをこめて「夏まつり大会」を河川敷グランドで開いています。
さらに、平成27年度からは、昔の「渡し舟」を再現した体験事業も行っています。
現在の石碑は、平成30年度の致芳地区文化振興会が「長井市心のまちづくり活動推進補助金」を活用して建立したものです。平成30年11月26日には、東五十川の多くの住民が見守る中、盛大に除幕式が行われました。