西方吉太郎碑
山崎山公園にある酬恩碑(しゅうおんひ)で紬の碑とも呼んでいます。
長井の紬織は古く300年程前から織られていましたが、商品として売り出されたのは幕末からといわれています。明治になっても良い製品ができず、困っていました。
明治19年(1886年)最上屋清五郎を中心とする人達が新潟県の十日町から西方清五郎を紬改良の技術員として招き、丁寧な指導を受けました。そのおかげで本場の琉球紬をしのぐほどの製品を作れるようになりました。
西方氏は長井に来て9年目ふとした病で亡くなりました。改良長井紬の大恩人として、西方氏の徳を伝えるため感謝をこめてゆかりの地に酬恩碑を建てることになりました。
碑文は米沢の伊佐早謙、碑文の上の額の題字は上杉茂憲公の書いたもので、『人其れこれに代わる[人其代之]』と彫られています。
はじめ彼が最も長く生活した小関五郎次宅の東に建てられましたが、昭和60年道路拡張で山崎山公園に移されたものです。