おせき供養塔・栃の木堰跡
栃の木堰は野川の水を源流として寺泉、高堰、西舘、宮内、白兎を通って最上川に注ぐもので重要な農業用水路でした。
開かれた正確な年代やその時の様子などについての記録は残っていませんが、伝説として手塚源右衛門と召使の少女おせきについての話が伝えられています。
承応年間(1652年―1654年)西舘の豪族手塚源右衛門は、堰を通せばまだまだ多くの田が開けると栃の木堰の工事にかかりましたが、大変な難事業でした。
おせきは苦労している主人のために人柱(難工事の時に生きた人間を水底や土の中に埋めると、工事がうまく進むという考えで犠牲になること)になろうと工事の困難な場所に身を投げました。
そのお陰か工事は無事に終わり、堰には野川の水がこんこんと流れて五十川を潤しました。
野川土地改良事業で昭和47年に新しい水路ができました。「栃の木堰跡」の碑は昭和55年に建てられ、おせき供養塔は致芳郷土史会の有志によって建てられたものです。